[知事の反共攻撃への反撃]荒巻京都府知事のたび重なる反共妄言は許されない
(95年9月19日・京都府委員会声明)
さきの参院選挙で、京都でおこなわれた反共攻撃は、全国的にみても突出した激しさであった。異常な発言を執拗にくりかえし、この攻撃の先頭に立ってきたのが、荒巻禎一京都府知事である。知事の一連の発言は、その内容たるや反共妄言の類といわざるをえないようなものではあるが、府政の責任者の発言として、京都の地方政治と府政の民主的発展、府民の願いの実現のためにも、見過ごすことのできない重大間題となっている。
戦後50年を迎えたいま、日本共産党以外の政党がみんな「右へならえ」し、日本の政界は、「オール与党」政治によって覆われている。戦前を想起させるような政治状況のもと、識者からも「今日、共産党を除くすべての野党を消滅させた『政界再編成』なるものは、がっての『翼賛議会』にかぎりなく近い」(加藤周一氏、「朝日」8月2日付)と危惧の声が上かっている。
さきの参院選挙では、こうした「オール与党」政治にたいし、 日本共産党の全国的躍進と自民・社会両党の後退、かつてない低投票率という形できびしい審判が示された。この流れをさらにすすめ、「国民が主人公」の政治を実現するためには、無党派の人びとと、「オール与党」政治と対決してきた政党=日本共産党との広範な共向か不可欠となっている。こうした党派を越えた共同の最大の妨害物となっているのが反共主義である。わが党は、このことを率直に提起するものである。
もちろんわが党は、日本共産党への批判をすべて「反共主義」としているのではない。わが党は73年の歴史のなかで、その時々の中心問題で国民を裏切るようなことはなかったが、個々には誤りもあった。だからこそ事実と道理にもとづく批判は、たとえ耳の痛いものであっても真摯に受けとめ、みずからをただし国民とともに歩むという立場をつらぬいてきた。
しかしこうした批判とは異なり、日本共産党とその理論的基礎である科学的社会主義を憎悪と偏見をもって敵視し、日本共産党と国民との共同を妨げることを目的としているのが反共主義である。アジアで2千万人以上の人びとを犠牲にした侵賂戦争が、反共主義を旗印に、暗黒政治のもとですすめられたという事実を見るとき、「反共主義は反民主主義であり、反人民である」ことは歴史の教訓である。そして、戦前の日本社会におしつけられた反共主義は、反動支配の武器として戦後もひきつがれ、そのときどきの支配勢力が革新・民主の運動にたいして攻撃をくわえたいと思うときには、新しい材料をくわえてたえずおしひろげられ、強められてきた。今日、こうした反共主義の打破は、日本社会の進歩と発展のための不可欠の課題とかっている。
日本共産党京都府委員会は昨年2月に「声明」を発表し知事による日本共産党の歴史と路線をねじまげた攻撃にきびしく抗議し、撤回を求めた。それから1年半たったが、知事の一連の発言は、政策問題での見解の相違などの枠を大きくこえ、民のための行政を充実させていかなくてはらならない。
故蜷川知事は、初当選した直後の臨時府議会で、保守系議員からの「特定政党のための営利活動をするのではないか」との攻撃にたいし、「わたしはどこまでも府民の大多数の諸君の利益というものを尺度といたします」とのべ、以来28年間、「住民こそ主人公」の立場をつらぬいた。だからこそ、この間、自民党も含め、予決算をはじめほとんどの議案に賛成せざるをえなかったのである。同時に、蜷川知事は、「反共は戦争前夜の声」と喝破し、反共主義とたたかいつづけた。こうした態度は、反共主義の立場から府民多数の利益に背を向けてきた荒巻知事との鮮やかな対比を示している。
3,日本共産党の存在意義は、いかなる反共攻撃でも打ち消すことはできない
略
先の参院選挙の演説会では、「共産党の息の根をとめる」などという日本共産党の存在そのものの否定や、公党である日本共産党にたいし「巾着(きんちゃく)切り、スリか万引き」などという、常軌を逸した悪罵を投げつけるところにまできている。 こうした発言は、少しでも批判をするものを「国賊・非国民」として弾圧した、治安維持法的・特高的発想とも通ずるものであり、民主主義とあいいれない。
同時に、府政の改革を願う府民を敵視するものであり、260万府民の代表である知事の発言としても重大である。
わが党は、知事の反共妄言にたいし、そのつど、きびしく批判してきたところであるが。卸事の発言がここまでエスカレートしている今日、改めて全面的に批判するとともに、なぜ、知事がこのように反共攻撃に狂奔するのか、そのことが府民に何をもたらしたかまで立ち入って明らかにするものである。
1.すでに根拠なく、道理のないことが明白な知事の反共妄言
荒巻府知事の反共攻撃の特徴は、日本共産党の歴史と路線と方針をねじまげ、明確な事実をつきつけられて反論されても頬かむりし、なんら反省せず、問題をすりかえ、執拗にくりかえす手法、手口にある。
●日本共産党の歴史と路線、方針のねじまげ
知事は、わが党の歴史と路線を意図的にねじまげて、「共産党に地方自治を論ずる資格かおるのか疑問だ」(93年12月府議会)などと攻撃し、日本共産党が地方自治を方針に掲げていないかのような発言さえおこなった。これにたいしわが党は、さきにあげた「声明」で全面的に反諭し、日本共産党が、戦前の暗黒時代から地方自治をかかげ、今日も綱領に憲法と地方自治の擁護を明記するなど、いっかんして地方自治の擁護者として奮闘してきたことを明らかにした。また、戦後の憲法制定時に、日本共産党だけが地方自治を明記した憲法草案を発表し、この主張が憲法に実ったのと対照的に、自民党の前身や社会党の草案には地方自治はおろか主権在民の原則すらなかったことも指摘したが、知事はまったくの回答不能におちいった。
地方自治をめぐるもう一つの重要な攻撃は、「共産党の言い分は、全国で判で押したように同じことをいっている、中央の指令でしか動かない政党で、地域の個性も多様性も考えられない」(92年12月宇治市長選)などというものである。その後もくりかえされているこの攻撃は、政党政治に対する無知をさらけ出したものにほかならない。全国の地方自治体のその時々の共通した特徴を分析し、これにたいして統一的な批判と政策を打ち出すことは、国民全体に責任を持つ政党として当然のことてある。もちろん、わが党が、それぞれの地方自治体の「個性と多様性」をたちいって分析しそれに即した具体的政策を打ち出していることも広く知られていることである。
逆に、府民からの切実な願いよりも「中央の指令」を優先してきたのが、知事である。入院給食費の有料化にともない、全国の多くの府県が独自の助成制度をつくったにもかかわらず、知事がこれを拒否した際、マスコミからも「厚生省の通知かおるからだ」(「朝日」3月12日付)と指摘されたことに、その姿勢が象徴された。
知事は、参院選中も、事実をねじ曲げ、党の路線々方針に新たな攻撃を加えてきた。国民の立場でスジを通申日本共産党の政治姿勢について、「彼らの公約は、自分が守る立場にならないからいえるような公約。毛バリをはりめぐらしているだけ」 「(共産党はいっせい地方選で)勝ったというが内部では......ゆゆしき事態といっている。大本営発表だ」などと口汚い攻撃をくりかえした。
知事の発言とは逆に、日本共産党が戦前掲げた侵略戦争反対と主権在民という公約は、戦後、憲法に明記される形で実現した。またわが党は、企業団体献金禁止や政党助成金反対という公約をみずからの行動をつうじて守り抜いている。さらに、白内障眼内レンズの保険適用や乳幼児医療費の無料化など、府民の運動と結んで多くの公約を実現してきた。知事の発言は結局、政権についたことのない野党は、公約を語り、政権党の公約違反を追及してはいけないというもので、政権党への批判を許さないという暴論であり、議会制民主主義の否定に直結するものである。知事の暴論は、みずから議会制民主主義を語る資格を持っていないことを暴露したものにほかならない。
いっせい地方選挙結果についていえば。わが党は、前進を評価しつつ、問題点に目をふさいで「勝った勝った」とせず、間題点を具体的に分析し教訓を生かすという態度をとっている。それを「大本営発表」などという知事の態度こそ、事実を正反対にねじまげる戦時中の軍部さながらのものでぱないか。
わが党は、「声明」で、「知事が仮にも、公党の歴史と路線にかんして発言するならば、......基本的文書と歴史について『知らなかった』ですまされるものではない」と、公党に対する事実をねじまげた攻撃は許されないことを警告した。ところが、知事は、こうした警告にまともに耳を貸さず、不誠実者わまりない態度をとってきた。知事に求められているのは、反共の色メガネをかけるのではなく、事実をまともに見つめ、道理ある意見にまともに耳を傾けるというあたり前の態度である。
●批判拒否体質と失態の連続
知事は、事実と道理にもとづく批判や意見にも耳を貸さず。反共主義の立場から、道理なき「反論」をしすぐに破綻し、次々と失態を演じてきた。ここ数年の主なものをあげるだけでも以下のようなことがあり、知事の「批判拒否体質」を示している。
◆90年府知事選で、民主府政の会の候補者が、異常な地価高騰をたたずために、国土利用計画法にもとづき、土地取り引きを知事の許可制とする規制区統制度の発動を主張した際、知事は、「国上を国有にするという共産党の考え」などと暴論を展開し、マスコミからも、「直後に海部首相が同制度に意欲を示し、あわてたこともあった」(「読売」90年4月9日付)と指摘されるありさまだった。
◆大手ゼネコンによるヤミ献金、汚職疑惑が大問題になった際、全国の自治体では疑惑企業を指名入札からはずすなどの措置がとられたにもかかわらず、知事は、府警本部の110番指令センターの新築工事を、金丸事件で捜査を受けた清水建設に発注することを提案した(93年6月府議会)。わが党の「汚職根絶を求める府民への挑戦」だとのきびしい追及にたいし知事は、「厳正公正に判断しているので問題ない」と居直ったが、その翌臥清水建設が契約を辞退して議案を取り下げざるをえなくなり、全国的にも際立った大手ゼネコンとの癒着ぶりを示した。
◆丹後リゾート計画の見直しを求める声にたいし知事は、「地域の特性を生かした施設が次々に整備され、ている。丹後地域の振興に大きく寄与」(94年2月府議会)と強弁した。しかし大手資本が次々と撤退し、「活性化への刺激期待と現実にズレ」(「朝日」94年3月18日付)「事業の具体的見通しはまだたってない」「採算面を疑問視、計画の大檣見直しを求める声も」(「京都」8月7日付)などのあいつぐマスコミ報道にも示されているように、知事の発言の破綻は明らかになっている。
◆知事は、福祉やくらしを切り捨ててお金をため込むという財政運営への批判にたいし、「税収が見込みより増え、余った」からと言い訳をしていたが、不況が続くと、これまでの言い分をひるがえし、「基金は不況に備えて積み立ててきた。共産党さんの言い分を聞かなくてよかった」(92年12月府議会)とのべた。ところが、実際の不況対策は、「雪山で吹雪に遭ったように、今は動きまわらずに、体力を消耗しないのが得策」(「朝日」94年3月27日付)と無策をいい訳するだけであり、一方で、大企業向けの大型プロジェクトの推進にはあくまで固執した。結局、大企業向けの事業のために府民から税金を吸い上げ、ためこんできたことをみずから暴露する結果となった。
◆知事は、「非核京都府宣言」の要求にたいし、「昭和35年に世界連邦平和宣言をあげた。そのとき共産党は反対した」などとのべて日本共産党が核兵器廃絶に反対したかのようにねじまげうえ、「非核京都府宣言」をかたくなに拒んできた。しかし、この「世界連邦平和宣言」は結局、世界連邦ができるまでは核兵器はなくならないというもので、核兵器廃絶を究極のかなたにおしやり、棚上げするものにすぎない。知事の発言は、フランスの実験強行にたいする大きな抗議の声として改めて示された、核兵器廃絶を緊急の課題として求める府民の願いとまったくかけ離れたものである。
◆知事は、市町村が設置する耐震性貯水漕にたいして府としての補助制度の新設を求めたわが党議員の質問にたいし「国庫補助は国から直接市町村に行くことになっている」「十分制度を研究してから話をしていただきたい」(95年2月府議会)などとのべて拒否した。ところが道理ある要求の前に直後の補正予算では府としての補助制度を提案せざるをえなくなり、「知事は認識を変えたのか」とのわが党議員の追及に一言もこたえることができず、逆にみずからの「研究不足」ぶりを示すことになった。
◆知事は、「オール与党」と対決し、住民の立場でスジを通してきたわが党にたいし、「与党にしてもらいたくても1回もおよびがかからないことの現れ」(参院選演説会)などと攻撃した。しかし、東京、大阪の知事選の結果は、「オール与党」政治にたいするきびしい審判であったことは明白であり、知事自身も、「(東京、大阪の結果は)住民の中に大きな変化が生じている一つの表れ」(府の幹部職員への訓示)と認めていたことと矛盾するものである。この発言は結局、知事が、「オール与党」政治にたいする国民の審判に耳を傾ける意欲も資格もないことを示した。
●「社会主義崩壊」論の立場からの攻撃
知事は、「ソ連や東欧の混乱に見られるように、共産主義では人びとを豊かにし、幸せにすることはできない」(93年2月府議会)「京都は日本の顔。その顔が世界で通用しなくなっている共産党では、耐えられない」(93年京都市長選挙)など、「社会主義崩壊」論の立場から]旧ソ連と日本共産党を結び付け、くりかえし攻撃をかけている。
しかし、再三、指摘しているように、社会主義とは本来、「民族は平等」「国民こそ主人公」をつらぬくものである。ところがスターリン以降のソ連は、他国を武力でふみにじり、国内では国民の自由を奪い、経済もすべて上からの命令で動かしていた。これは社会主義と縁もゆかりもない体制である。日本共産党は、ソ連共産党をむこうにまわし「あなた方はニセモノの共産党だ」と正面から批判してきた世界でもただ一つの党であり、日本共産党を破壊しようとするソ連の干渉と30年間たたかいぬき、はねかえした党である。
こうした日本共産党の自主・独立、自由と民主主義擁護の立場は世界でも広く知られたところである。世界で、ソ連の誤ったやり方に追随してきた党が次々と崩壊しているなか、逆に日本共産党が今回の参院選での9年ぶりの前進したこと自体、日本共産党の自主独立の立場の確かさを証明している。
ところが知事はこうした指摘を無視し「こわれたレコードのように」同じ主張をくりかえすばかりである。このことは、知事が「社会主義」の名のもとで数々の蛮行を強行したスターリン以降のソ連の指導者たちと「社会主義とはこのようなものだ」との考えの点では、共通の水準にあることを示している。
いっせい地方選挙のさなかに日本共産党京都府委員会に取材に訪れたオーストラリアの有力日刊経済紙「ジ・オーストラリアン・ファイナンシャル・レビュー」の東京特派員は、日本共産党の路線とソ連とのたたかいを知り、「オーストラリアの共産党も日本共産党のような考え方をとっていたら、なくなることはなかっただろう」と驚き、「元気ハツラツ。それが日本の共産党」と題する記事を書いた。いま、知事の妄言とはまったく逆に、立場をこえてまともにものをみる人たちからの日本共産党への、そして京都の党と党活動に新たな注目が集まっている。
このように、どの問題をとっても、知事の発言が根拠も道理もないことは明白となっている。
2,知事の反共攻撃の本質と反府民的役割
●「反共」第一主義がなにをもたらしたのか
わが党が反共攻撃の問題を重視するのは、この攻撃が日本共産党だけにかけられたものでなく、府民の願いや要求を押さえつける攻撃だからである。
知事は自主的民主的な府民の運動や組織を「共産党系」とレッテルをはり、その要求や主張がいかに府民多数の願いにそったものであっても、敵視する立場をとってきた。こうした立場が府民のいのちと暮らしにもたらしたものを見ると、「反共」第一主義の害悪がいっそう浮き彫りになってくる。
亀岡市でのいたましい児童焼死事件も、教員組合や父母が再三、焼却炉の改善を求めていたにもかかわらず、これに耳を貸さなかったかたくなな教育行政のもとでおきた。京都府立養護学校の教員が法に照らしても不足し生徒や教員に大変なしわ寄せがされている問題でも、知事は改善を求めたわが党議員の質聞にたいし、 「質問者の党の意見として頭をかしげたくなる次第だ」(93年12月府議会)と暴言をはき、改善要求に背を向けた。直後の知事選挙で、京都の養護学校の生徒1人あたりの教員数が滋賀県の半分にすぎず、向日が丘養護学校では、1ヵ月以上の病休者が1年間で教職員の2割にも達していることが大きな争点となった結果、知事はようやく一定の増員をおこなったが、犠牲者が出石まで放置する冷たい姿勢は変えようとしてない。
それだけではない。知事は、深刻な不況のなかで、丹後で30人をこえる自殺者が大きく報道された時、ただちに対策を講じるのではなく、「信憑性について点検している」(93年で12月府議会)、「厚生省に調査してもらったら毎年10人から15人は死んでいる」(94年知事選の演説会)と発言し多くの府民のひんしゅくをかったが、ここでは犠牲者がでても居直り、府民の命よりもみずからの失政をとりつくろうことを優先する驚くべき態度が示された。
さらに知事は、中小企業向けの官公需発注率が蜷川民主府政時代と比べて10ポイントも低下していることを指摘されても、「官公需の中小企業発注は平成4年度で1071億円、初めて1千億円をこえた」(94年2月府議会)と、「率」を「額」にすりかえた。しかし予算全体の規模が大きくなれば額も増えるのは当然ことであり、そこにあるのは、ペテン的手法まで使ってて実態をごまかし、あくまで大企業優先、中小企業切りすての府政を押しすすめることに固執する姿勢である。
また、わが党が、自民党政府による農業切りすて政策への追随を批判し「農業を基幹産業として位置づけ、それにふさわしい積極的施策を」と追及したのにたいし、知事は「共産主義的農業の失敗は歴然としている」(91年9月府議会)と、まったくのすりかえ答弁をして居直った。府が、全国1、2位を争う減反を農家に押しつけている事実をみるとき、農業分野でも知事の反共主義が府民切りすての元凶となっていることを示している。
知事は90年知事選の際、蜷川民主府政と自民党府政の関係について、「巻き癖のついた紙を元にもどすには、一度、逆に巻かなければならない」としたうえで、「巻きもどすためには、反対の方を強くしたかもしれない」とのべ、みずから「反共」第一主義が福祉や暮らしを切りすててきたことの害悪を認めた。しかし知事は、その後もみずからの姿勢をたたすどころか、いっそうエスカレートさせ、府民のいのちと健康に重大な被害をもたらしているのである。
●なぜ、知事は反共攻撃に狂奔するのか
なぜ、知事はこのように反共攻撃に狂奔するのか。
なによりも知事自身が、「全国の都道府県の共産党の議員をみると(京都は)ずばぬけた数です。京都の共産党はまだまだ油断ならない」(参院選決起大会)と心情を率直に吐露したように、財界優先、住民不在の府政をすすめるうえで、府民と固く結びつき、スジを通す日本共産党の存在を恐れているからこそである。
同時に、知事の体質と府政の本質が背後にあることも指摘せざるをえない。そもそも自民党府政は、知事自身が「蜷川府政のアンチテーゼ」(「産経」90年3月25日付)とのべているように、民主府政がっくりあげてきた全国に誇るべき住民本位の成果をつぶす二とにこそ役割があった。蜷川民主府政時代、総務部長などをつとめ、民主府政を賛美し「革新自治体の公務員として...国の役人が『ハッ』と思うような理論的根拠をもってぶつかる決意と意欲を」(『民主府政研究』第2号)とまで発言していた荒巻知事は、自民党府政に転換してからはその姿勢を180度転換し、国いいなりの本性をあらわにしたが、過去のみずからの言動への「負い目」もあり、反共をきわだたせることにより、自民党と政府にたいする「忠誠」を示しているである。
自己の保身のために、基本姿勢をコロコロ変えて恥じない知事の体質は鴨川ダムの問題でも示された。知事は、府民の世論の前に最終的にダム建設を断念したが、府が原案を出しておきながら、反対の世論が強まると、「鴨川改修協議会が決めること」と責任をすりかえたことにたいし同協議会会長も「協議会ばかりが悪者にれて、すっきりしないことが多すぎる」(「京都民報」94年2月13日付)と批判している。知事が任命した協議会の会長が、このような批判をすることはきわめて異例のことである。
さらに知事が、自治省の中央官僚として、「住民こそ主人公」という地方自治の精神とは相いれない体質をもっていることも明らかになっている。沖縄での台風によるサトウキビ被害にたいし、県民に同情の意をあらわすどころか、国体での「天皇警備がやりやすくなる」(87年9月)と発言し、沖縄県民の激しい怒りを呼びおこし、沖縄県民に謝罪せざるをえなかった事件にも、そのことがくっきりとあらわれた。
また、国政、府政における日本共産党以外の「オール与党」化が進行するなかで、与党間に多少の矛盾があっても「反共」さえいっておけばみずからの地位は安泰という、政治的思惑も存在している。
●知事に求められる見識・品性・資格と荒巻知事の反共妄言
以上のべてきたように荒巻知事の反共妄言は260万府民の代表としての知事とは相いれないものである。わが党は、府民とともにあらためて知事の見識・品性・資格を問うものである。
地方自治体とは、住民すべての安全、健康、福祉を保持するのが役割であり、知事とは行政の責任者として、なによりも公正さが求められている。また、260万府民の代表としての見識、品性が求められているのもいうまでもない。だからこそ知事は府政の主人公である住民からの府政批判にたいし真摯に耳を傾け、つねに住