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政策と見解

【道路、鉄道、交通】道路網整備をめぐる妄言を糾す一京都縦貫自動車道開通にあたってー

1996/05/13 更新
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(96年5月13日議員団声明)

1 開通式典を反共・反蜷川攻撃の場に

 さる4月27日、京都縦貫自動車道(京都丹波道路)の開通式典が亀岡市で開かれた。
 日本共産党からは。西山とき子参議院議員をはじめ、府・市・町会議員多数が出席、西山とき子参議院議員が祝辞を述べ、寺前いわお衆議院議員の祝電も披露された。西山議員は、「地元地権者をはじめ関係者の尽力で完成した」と感謝を述べるとともに、「日本共産党がかねてからバイパス建設の早期実現を望み、微力ながら取り組んできた」と述べ、京都縦貫道路全線の早期実現への願いを披瀝した。
 ところが、最初に祝辞を述べた荒巻京都府知事は、「府政の流れが変わった1979年に都市計画決定がおこなわれ」て建設が始まったと、暗に蜷川民主府政時代にはまったく考えられなかった事業であるかのように述べた。野中広務衆議院議員もまた「78年12月17日、竹下登先生から『今、事務次官折衝で9号線バイパスの予算がついた』という電話があった」と述べて、荒巻知事発言を裏付けてみせた。野中一二三町長はもっと露骨に、「1971年、促進協議会が発足した当時、蜷川知事をはじめ一部のみなさんから『こんな道路は軍用道路だ』といってきびしい批判を受けた......そんな邪魔をされた1例のあったことも、私たちは忘れてはならない」「人間とは勝手なもの......今日は『こんなに立派になった、みんなで協力したんだ』とおっしゃっている」などと蜷川知事と日本共産党を攻撃した。
 ここには場違いの大人げない発言として見過ごすことのできない重大な問題が含まれている。反動勢力は、70年代はじめから今日まで、「蜷川民主府政のもとで道路など交通網整備が他府県に比べ極端に遅れた」などと事実にもとづかないデマ攻撃を執拗に広範におこなってきた。しかも単に京都の各種選挙戦のみならず、全国各地で「民主的自治体イコール開発の遅れ」の例証として展開されてきた。これらの攻撃に対してはこれまでもその都度反論してきたが、このさい、改めて事実に即して全面的に反論する必要があると考える。

2 蜷川民主府政と日本共産党は国道9号線バイパス(京都丹波道路)建設のイニシアティブをとり軌道にのせた

(1)すぐに底が割れる開通式での発言

 開通式当日、建設省近畿地建などが用意して参加者全員に配布した概要には「経緯」が記されているが、1974年2月1日、9号バイパス整備計画発表と明記しており、これ一つをとって乱荒巻知事の発言が事実に反した、まったく無力で厚顔無恥としかいいようのないものであることの何よりの証明である。
 整備計画が発表された74年2月といえば、蜷川7選を前にして反動連合が社会党府本部をまきこみながら、「府政沈滞論攻撃」をおこなっていた時期であり、発表はこれへの具体的回答でもあった。
 発表された整備計画は、京都市物集女一沓掛間4㎞は現道の2車線を4車線に拡幅、沓掛一丹波町須知間31㎞は新道建設で、80年完成を目標に掲げていた。
 その後、政府の「総需要抑制策」により工事着工は遅れていたが、用地の先行取得に努め、78年4月5日近畿地建は、物集女一沓掛間の用地買収費として、78年度の2㎞分の18億4千万円か承認され、79年度で残り2㎞分の用地買収をおこない、8工年完成をめざすこと、沓掛一須知間の都市計画決定を78年度中におこなう予定であることなどを発表した。
 林田自民党知事が誕生したのは78年4月9日であったから、蜷川民主府政がやりあげた最後の仕事が9号線バイパスの建設であったことは、以上でも明らかであり、荒巻知事が自画自賛する79年1月19日の都市計画決定もすでにその前年に予定されていたことも明らかである。
 野中衆議院議員が79年度予算案に9号バイパス建設費がもりこまれたとしているの乱すでに近畿地建が79年度分として予定していた物集女一沓掛間の用地買収費などであって、あえて事務次官折衝にもちこむ必要のないものである。興味深いのは荒巻知事などが今日、9号線バイパスを沓掛一須知間に限定して宣伝しているのに対して、野中衆議院議員が物集女一沓掛間の拡幅をも当然ながら9号線バイパス計画の一部として認識して発言していることであ、る。これは、野中氏が9号バイパス建設のレールが蜷川知事時代に敷かれたことを認めるものであること、荒巻知事はこの事実を隠すために沓掛一須知間のことしかいわないことを、はしなくも暴露したことである。

(2)野中町長らは発言に責任をもつべき

 野中町長のいう71年促進協議会結成当時の状況はどうか。
 71年3月29日蜷川知事は、第2次京都府総合開発計画を策定、発表したが、道路整備計画のなかで4車線以上の自動車専用道路として、9号線にほぼ平行する形で、京都一福知山一兵庫県を結ぶ山陰自動車道が近畿自動車道舞鶴線などとともにもりこまれていた。このように、自動車道建設計画を策定した蜷川知事が9号線バイパスを「軍用道路」などと批判するはずがないことは、この一事でも明らかであり、その後の努力で前記74年の整備計画発表となったものである。
 日本共産党はどうか。70年12月9日、京都府委員会は間近に迫った京都市長選挙に当だっての政策を発表したが、京都市とその周辺部の交通事情悪化に対処するため「適当なバイパス建設」を発表、翌71年3月5日、いっせい地方選挙にのぞむ7大政策のなかで「抜本的なバイパス建設など道路建設計画の樹立」「府下全域の均衡のとれた発展をはがるため自動車道を含む交通機関の整備をすすめる」と述べ、72年10月22日発表の総選挙政策でも「9号線バイパスの建設」を明記したように、促進協議会が結成された当時、いっかんして9号線バイパスや自動車道の建設を促進してきたもので、当時、能勢のナイキ基地化に反対する闘いの最中にあったが、野中町長のいう「軍用道路」などの位置付けをおこなっていないことも明らかである。
 以上で明らかなように、野中町長の発言は事実にもとづかないまったくのデマ宣伝である。野中町長は公人として公的場所で発言した以上、「蜷川知事と一部のみなさん」がいつどこで「きびしく批判」したのか、誠実に証明すべきである。わが議員団はこのことを強く要求する。
 荒巻知事は当時、京都府総務部長であり、この間の事情を熟知する立場にある。野中町長の発言が事実かどうか明確にしていただきたいと考えるがどうか。
 なお、75年1月に誕生した亀岡市の小島共産党員市長は促進協議会の構成団体として積極的に建設促進の陳情、宣伝活動をおこなったこともあわせて指摘しておくものである。

(3)デマを真実と思わせる欺瞞

 70年知事選挙のさい、自公民反動勢力の民主府政転覆策動とのきびしいたたかいのなかで、「蜷川知事が万国博開催に反対したから道路建設が遅れた」との宣伝がおこなわれ、今日も引き続き、公然・隠然とすすめられ、少ながらぬ府民に沈澱しているが、この問題の経過は逆に、蜷川知事の府政の均衡ある発展、日本海を表玄関にとの政策をいっそう浮き彫りにするものである。
 70年知事選挙告示前の3月1日。京都府委員会は「万国博間題について」の個人署名文書を発表して、自民党のデマ宣伝に反撃した。そのなかで蜷川知事が60年当時、万国博開催にいち早く賛成し、会場費補助など積極的に要請に応えていたこと、ところが準備の過程で万博協会や大阪府が「大阪産業博覧会」的発想で事業をすすめ、たとえば万博関連予算の道路予算では全体の90%を大阪府域に投入し、京都府は予算要求額の2%しか認められないなど、大阪を除く近畿各府県を犠牲にしてのものであること、とくに万国博と日本海側を結ぶ視点にまったく欠けている点を指摘した。近畿自動車道舞鶴線が予算化されず、対岸貿易の相手国の多くが万博参加を認められていない点をさしていたのである。
 いま1つのデマ攻撃は、京都市内の交通事情悪化の責任をすべて知事になすりつける攻撃であり、行政権限の所在にうとい府民を欺瞞するもので、今日にいたるまで臆面もなく続けられているものである。
 蜷川知事は選挙戦中、3月29日、亀岡市の立会演説会で、「京都府の道路が悪い」とのデマ攻撃に反撃して、京都市内の府道は京都市長の権限に属しており、知事の権限にないことを指摘したうえで、府下の府道の改良率、舗装率のいずれも全国平均を上回っている事実を建設省の統計にもとづいて述べた。以後、選挙後の府議会本会議においては。京都府の道路行政にふれた野党の民社党(床尾府議)、自民党(池田府議)らもいずれも「全国のハイレペルクラス」と蜷川知事の示した数字に兜をぬがざるを得なかったものである。


3 京都縦貫道(京都丹波道路)建設の完成はなぜ遅れたか

(1)自民党府政下の府道建設の遅れ

 道路建設の遅れについて知事の責任を追及するのであれば、それは国直轄の国道や市町村道でなく、知事が責任と権限をもつ都道府県道(政令都市である京都市域は京都市長に権限)で比較することが必要である。
 日本共産党府会議員団は、84年9月議会で建設省の道路統計年報の数字を示して、林田自民党府政が発足した78年から84年の間に、舗装率が23位から35位に、改良率も23位から32位に、渋滞解消の程度を示す整備率が26位から37位と後退した事実を指摘した。この数字はその後、ますます後退し、最新の95年版では、舗装率31位、改良率42位、整備率42位と、自民党府政下で他府県に比して大幅な遅れを示しているのである。当初は「建設省の統計のとり方が変わったから」と弁解にこれ努めた荒巻知事も、「統計のとり方(道路政良の基準が4.5mから5. 5 mに)が変わったのは全国一律であって、京都の遅れの言い訳にならない」との指摘に反論できず、最近では、「数字がどうであろうと府民は道路が良くなっていると実感している」と開きなおった答弁しかできない。時代がすすみ、技術の進歩によって良くなるのは当然であって。日常的に他府県と比較ずる機会のない府民の実感はあっても、遅れを問題にする以上、当然。客観的な資料にもとづいておこなわれるべきである。
 京都府が行う京都府民意識調査報告書でも毎回、道路網の整備、とくに渋滞のない道路が府民要求の上位を占めていることこそ、府民の実感であり回答である。


(2)高速道路建設は国の責任 

 わが国の高津道路建設の歴史は、財界・大企業の要求に沿い、まず太平洋国土軸に沿って建設され、現在、横断軸が各所で建設中で、日本海国土軸が計画にのぼりはじめことは誰もが知っている事実である。
 この太平洋国土軸に沿って東西に長い滋賀、兵庫が高速道路の建設距離が長く、京都、奈良、和歌山が短いのは当然であり、客観的事実として誰も否定できない問題である。同時に、現在横断軸が建設中のもとでは南北に長い府県で総延長の進捗率が大きくなるのもこれまた当然である。
 高速道路は、国の責任でおこなわれているもので、その進行はひとえに国の政策判断にまかされるのであって、その遅れのゆえをもって。知事の責任が問われるものではない。したがってわが議員団は高速道路の遅れについて、自民党知事の責任を追及するつもりはさらさらない。しかしながら高速道路建設が自分の手柄であるかのように描き、前任者の遅れを責めるのであれば問題は別である。荒巻知事は、府道建設での遅れを糊塗するためにことさら進捗率だけを利用するが、それは欺瞞にすぎない。
 参考のために述べておくと、少し古い数字であるが、面積1平方㎞あたりの総延長で計算した都道府県別密度は、94年3月末現在、京都府は全国32位(「日経」報道)、91年度末の整備計画延長は38位、供用延長は37位、人口100万人あたりの整備計画延長は40位、供用延長は39位(いずれも全国高速自動車道建設協議会発行「便覧」)である。
 京都縦貫道(京都一丹波道路)開通と時を同じくして、山陰線・宮福線の電化が完成した。道路とならんで鉄道の遅れなるものについても、反動勢力のデマ攻撃が集中的におこなわれ、今も続いているが、そのつど反論しているのであええて今回はふれない。
 ただ、94年2月議会で府道の整備率を問題にしたとき、知事は問題をすりかえ、府内の鉄道の電化率が77年当時6.9%であったのが90年4月現在58.3 %になったと自画自賛した。わが議員団はその場で奈良県が77年当時21%であったのが、数年前に100%になったのをはじめ、滋賀、大阪、和歌山でいずれも100%電化されている事実を指摘した。その後、知事は電化率を使っての蜷川府政攻撃をいわなくなったが、欺瞞、デマ攻撃の中味はこれほど底の浅いものである。


(3)京都縦貫道の大幅な遅れは荒巻知事と自民党の責任

 蜷川知事のもとで整備計画が発表された当時、80年全線開通が予定され、「総需要抑制策」による遅れから拡幅部分の81年完成、老ノ坂一亀岡道路(道路公団部分)の85年完成、亀岡一丹波町間の建設省施工部分の88年完成が予定された。ところが、関係地権者の協力や関係者の努力にもかかわらず、今年96年までの完成の大幅な遅れは単なる国の政策変更ないしは個々の地権者の問題にとどまらない、政治家もかかわった「土地転がし」による意識的な遅れであり、この遅れはひとえに荒巻府政と自民党の責任と言わなければならない。その事実を次にみたい。
 老ノ坂トンネルの亀岡側の入口部分を占める、約5万3千立方メートル(記号)は土地転がしで悪名高い上田建設グループ(社長は元田中角栄の私設秘書)の大和不動産が69年に購入、以後、グループ内を4回も転売、80年9月からは同グループの伊吹建設の所有になっていた。
 わが議員団は、82年2月議会の代表質問でこの事実を指摘し、林田知事が参議院建設委員当時、上田建設の顧問であったことからも、バイパス建設を見越しての先行取得の疑惑が濃厚であり、適正で迅速な買収を行うべきと追及した。さらに85年7月にはその後の調査にもとづき、80年の国土法にもとづく届出のさいの売買中止勧告や公有地拡大推進法にもとづく買取協議の不明瞭さを追及するとともに、84年3月に国土法に違反してグループ内8社に転売されていた事実を暴露した。府当局は当時、地権者を伊吹建設として交渉を行っていた。つまり土地の移転登記が実態のないことを百も承知していたことが明らかとなった。しかも府当局は、国土法違反について「国土法を知らなかった結果の初歩的ミス」として文書注意ですませ、政治家との癒着を浮き彫りにしたものである。その後、世論におされてこの部分の買収がやっと成立、老ノ坂亀岡道路はようやく88年2月に供用開始となったのである。
 それでは亀岡市千代川一丹波町須知間の八木園部道路はどうか。
 当初の88年開通が92年に延び、さらに今回96年開通となった最大の障害は、近畿土地によるルート上の土地買占めであった。ルート上300mにおよぶこの土地は66年当時、園部町長であった野中広務衆議院議員が「ゴルフ場開発のため」と称して、町域を越えて八木町室川原財産区と直接折衝、66年3月に東京に所在する「互明商事」に売却させた。ところが互明商事は「ゴルフ場開発以外には使わない」との約束に反して、69年に近畿土地に売却、近畿土地は83年以来、10数年間、建設省の用地買収に応じなかった。このことが当初より8年間も供用開始が遅れた主要な原因である。
 野中広務氏は副知事時代の82年、先に述べた上田建設の土地転がしを追及にたいして「府が計画する多くの事業に何とか着工を遅らせたり、進行・期限を延ばそうとする動きのあることを残念に考えている」と、あたかも追及が遅れめ原因であるかのごとく描いてみせた。
 しかし、上田建設グループも近畿土地も問題の土地を69年に購入している。第2次京都府総合開発計画策定にむけて、建設省が準備作業を行っていた時期と一致するのは偶然と言えるであろうか。明らかに近い将来の道路建設とルートの概要を知り得る者が介在していたと見るのは、最近の各地でのゼネコン汚職の実態からしても常識ではないか。

4 おわりに

 日本共産党は、国民生活の利便、国土のつりあいのとれた発展、安全と効率、エネルギー浪費の抑制などの総合的見地から、国民本位の合理的な総合的交通・運輸体系を確立することが大事と考えている。この立場から、京都府域内の道路についても、京都縦貫自動車道などの必要な高速道路の建設、くらしの道路の建設・整備をすすめるために奮闘してきた。もちろん、環境・食観を破壊し、渋滞をいっそうひどくする、京都市内の高速道路に反対したのは府民要求からも当然であり、その他の道路のほとんどは住民合意での建設をすすめるために積極的に奮闘してきた。今後ともこの立場で道路網の整備に全力をつくす決意であることを、最後に改めて表明するものである。

京都高速道路計画をやめ、一般道路の整備を (97年6月20日・一般質問)

 本府は、京都高速道路整備促進京都市協議会に参加し、これを推進しようとしております。推進しようとする理由は、京都高速道路が、(1)京都の交通渋滞を解決し、(2)市民生活を安定させ、(3)経済を活性化する、と説明してきました。
 京都高速道路は。南区油小路久世橋通りのジャンクションを起点に、東西南北を高架と地下で五条通りまで、総延長19.5㎞であります。完成すると、2010年の交通量予測として、1日20万台の自動車を今よりもよけいに京都市内に呼び込む、としております。全線有料、総事業費が4000億から6000億円で、阪神道路公団が工事を担当するとしています。しかし、当初なかった地元自治体負担がで1000億円とも2000億円ともいわれています。
 私は、この京都高速道路は都市交通政策のうえでも、地球にやさしいまちづくりの点からも、禍根、汚点を残すものと考えるものです。